古都における世界遺産(4)
龍安寺
円融天皇は、10世紀後半衣笠山の西麓に勅願寺として円融寺を創建し、譲位後亡くなるまでこの寺で居住しました。天皇没後は円融寺も衰退します。
およそ150年後、平安時代末に藤原北家の流れを汲む徳大寺家からこの山荘を譲り受け、1450年に創建した禅寺です。
細川勝元は、室町幕府第8代将軍足利義政を補佐し、幕府の政務を総括する実力者でしたが、義政後の将軍継承問題等で引き起こされた11年に及ぶ応仁の乱(1467〜77年)の一方の旗頭でもありました。この乱による都の灰燼振りについては、500年後の第二次世界大戦後でも明治生まれの京都人が言ったと言う「先の戦で京の町は焼け野原になってしもうてな……」の逸話がある位です。
勿論、龍安寺も応仁の乱の被害を受け焼失してしまいます。勝元の子政元によって1488年再興されますが、300年後の1797年再び火災によって方丈、仏殿等の焼失してしまいます。現在の方丈は17世紀初頭に建築された塔頭西源院の方丈を移築したものです。今回は龍安寺の中でも最もよく知られている方丈南庭の石庭について紹介します。
龍安寺石庭は名庭として知られていたとは言え、昭和の初めのころは苔むしていたそうですし、見学者もしれ程多くなかったと聞きます。今から30年余前、事態を一変させることが起こりました。1975年英国のエリザベス女王が訪日された折、この龍安寺石庭を見学され絶賛されたのだそうです。今日では一日数千人の来訪者も珍しくないそうですが、感想を求められた女王が「私には解りません。」と言われたとも伝えられていますように、解らないことの多い庭園でもあります。見た目だけでなく、実は何時頃作られたか、誰が作ったのか等についても謎の多いことで有名です。勿論私とて紹介するような自説を持ち合わせていませんが、謎に迫るべく三つ(石庭のデザイン、造園の時期、作庭者)の視点から色々な説を紹介して見ましょう。
一.デザインの意図
高さ約2メートル程の油土塀に囲まれた横(東西)25メートル、奥行(南北)10メートル程の矩形の方丈南庭。縁から見て左(東)側から右(西)に向けて一群5石、二群2石、三群3石、四群2石、五群3石と大小15石が5つの群に分けて配石されています。石の外は僅かな苔を除き白砂が敷かれています。因みに砂に描かれた砂紋は、早朝に学僧が修行として描いています。
(1)配石デザインの謎
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砂上に配された五群15石をさらに空間的に一群と二群、三群と四群、そして五群とに分けてみると、見事に7石、5石、3石となり、一種の七五三形式になっています。古来の陰陽五行説に従うものですが、デザイン的にはそれ以上の分析は困難に思われます。
虎の子渡しの石組
親虎が子虎を連れて大河を渡る姿に見立てた配石と説明されています。中国の故事に由来する虎の子渡しは、小堀遠州作庭の南禅寺枯山水庭園の典型とされていますが、龍安寺石庭のデザインも同様の意趣だったでしょうか。これは作庭の時期に関連してくる問題をはらんでいます。
2適さを認知する石組
6~7年前にある研究論文で、龍安寺石庭は見る人が無意識のうちに快適さを感じるような配石になっていると報告されました。認知科学の分野の研究結果のようですが、これはコンピュータ分析による結果論であってデザイン手法を説明するには難がありそうです。
げ金比の石組
矩形の短辺と長辺の比が 1:1,618 の場合、安定した美観を与える形で黄金比と呼ばれています。私達が使用している普通の名刺の縦横の長さは黄金比となっています。
石庭の空間を短辺、長辺の長さを単位として縦、横、斜めに黄金比で分割を試みると、15の石が分割線上に巧く配石されています。意図的に使ったかどうかは判りませんが、結果としては黄金比に適合しています。熟達したデザイナーの頭脳はコンピュータより緻密で測量機器より精密なのではないでしょうか。その域に達してない私なんぞは専らコンピュータが頼りです。
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東西に長い縁の中央部に座して石庭を眺めると、半径10メートルの同心円上に
配石されていることが分かります。この位置に座り、正面の白砂を眺めて見て下さい。周りの石組が砂上に浮かび上がって見えて来ると思います。
(2)遠近法の技法
石庭を囲む西側の油土塀は手前から正面の壁に(北から南に)向って僅かながら低くなっています。また石庭の砂面についても、北側から南側に、東側から西側に少し傾斜しています。
石についても、方丈の入り口に近い一群の石は1メートルの高さに、入り口から最も遠く縁に最も近い五群の石は55センチの高さに据えられています。
これは遠近に強弱をつけることにより、見る人に石庭をより奥深くより大きく見せるための遠近法の技法で、ヨーロッパではルネッサンスからバロック時代に、また日本では桃山時代から江戸時代にかけて一般的に良く用いられた技法です。
全くにの余談ですが、何年か前に庭園に関して殆ど知識のない友人を龍安寺に案内した時のこと、彼曰く「これが噂の名園なんだ!石の値打ちは判らんけど、それにしてもえらい安上がりの庭だね。」細川勝元の時代は兎も角、確か息子の政元が龍安寺を再建した頃は細川家も財政的に相当困窮していた筈。そんな中で余り金、手間、暇掛けずにそこそこの石をバランス良く配石して、250屬龍間を修景したんじゃないのと言うのが彼の感想でした。
石庭を囲む油土塀は何故低いのか、これも謎の一つです。ニガリを混ぜた土を突き固めて築造された土塀の紋様には独特の風味があり歳月を感じさせますが、屋根の方は今から30年ほど前に瓦葺から杮葺きに復元されたものです。
1799年に出版された秋里籬島『都林泉名勝図会』に、龍安寺が紹介されています。図会中の挿図には次のような書き入れがあります。
「むかし細川勝元個々も別業をかまへ住せらるゝ時、書院より毎朝男山八幡宮を遥拝せんが為に庭中に樹を植えず。奇巌ばかりにて風光を催す。これを相阿弥の作りしなり。名づけて虎の子わたしといふ。洛北名庭の第一なり。後年塀の外の古松高く老て昔の風景麁となる。その上近年方丈回禄しぬればむかしを情を慕れ侍る。」
この様に勝元は毎朝石清水八幡宮を遥拝していた様ですが、同時に洛南一帯を監視していたとも考えられています。
↑『都林泉名勝図会』にある「龍安寺 方丈 林泉」(土塀の手前)と「龍安寺塔頭 大珠院」(土塀の外の借景部)の両図を参考にして作成
この男山は、龍安寺の南の方角直線距離にして15キロ程の所にあり、古くから朝廷と関りの深い八幡神廟、源氏の氏神八幡神社がありました。
余談ですが、今から120年程前、かの発明王エジソンは電球用のフィラメントのために世界中から集めた竹の中から、この男山八幡の竹を選んだことでも知られています。
二.造営時期の謎
龍安寺は本文冒頭に述べたように細川勝元によって創建され、応仁の乱で焼失した後息子の政元によって再建されました。石庭についても寺院建立時又は再建時に築造されたものと考えられていました。しかし各種の資料や調査研究から、石庭の築造時期に関して未だ定説を得るに至っていないのが現状と言えます。
(1)1588年春、豊臣秀吉が龍安寺で歌会を催しました。このとき秀吉を含め7名が総て絲(しだれ)桜のことを詠んだけれども、誰一人庭石のことは詠まなかった。現在方丈の西南隅に残る古株が其の時の絲桜であろうと推定されています。いくら桜花の時節の歌会とは言え、誰も触れなかったということから石庭は無かったのではないかと言う訳です。ただし花見後秀吉は龍安寺へ「庭の石うえ木以下取るべからざる事」との禁札を出していますので、庭石は在ったのかも知れません。
(2)室町時代の禅宗寺院では方丈南庭は、勅使の来訪時や新住職就任の式である晋山式等の儀式を執り行うための聖なる空間であり、観賞用の石組や植栽は認められていませんでした。この規範が変わるのは、江戸時代になって幕府によって新寺院諸式が定められてからのことです。儀式の場としての必要性が消滅した方丈南庭に鑑賞用の庭園としての意匠が施されるようになるのはそれ以降のことで、それ以前には無かったことでした。因みに足利義満が制定した京都五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、萬寿寺)を超える寺格の南禅寺方丈にはじめて石庭が築造されたのは1632年のことです。
龍安寺は臨済宗妙心寺派に属していますが、本山の妙心寺自体が当時の五山より一段低く見られていた様です。従って寺格から考えても、龍安寺がそれ以前に方丈南庭に儀式空間ではない石庭を造営することは難しかったのではないでしょうか。
(3)先に紹介した『都林泉名勝図会』の龍安寺の項に次のような記述があります。
「……庭中に樹木一株もなく海面の体相にして、中に奇巌十種ありて島嶼(とうしょ)に准(なぞら)へ、真の風流にして他に比類なし、これを世に虎の子渡しといふ。……」
この中で「奇巌十種」と記されていますが、挿図には塀に囲まれた石庭に寺僧と客人らしき4人が降り立ち案内している様子が描かれております。庭石は今日見るような様相で15石が配されていますが、石の数はどの様に数えたのでしょうか。
また挿図の書き入れには「近年方丈回禄(火事で焼けること)しぬれば云々」とあり、本書出版2年前に焼失したことが伺える記述があります。現在の方丈は西源院から移築したものですが、再建されたのは出版後の1800年ですから
挿図に描かれているのは火災前の様相ということになるのでしょうか。
同じく秋里籬島が1780年に出版した『都名所図会』には龍安寺境内全景の図があります。この図では、門の位置が方丈正面よりやゝ東寄りになっていますが、石庭の存在を明確に認識させる様な図柄にはなっていません。勿論絲桜の姿なども描かれていません。
(4)龍安寺所蔵の図書に描かれた龍安寺の図で、明らかな相違が見られます。まず『龍安寺敷地山之図』という古絵図には石庭が描かれていないのです。しかも南庭を囲む土塀の南側中央に門が描かれています。この絵図は、細川勝元が創建した当時の龍安寺全景を相阿弥が描いたとされていますが、江戸時代初期、狩野派の画人に模写させたものであろうとされています。
また『洛北龍安寺』にある木版摺りの絵図は、1797年の火災前に描かれたとされています。「秀吉公絲桜」と「虎の子渡」と挿記された石庭と現在の東側壁の位置に壁の無い柱だけの歩廊があり、南側土塀の門は中央部ではなくこの歩廊の位置に描かれています。画面左下に、秀吉の歌に詠まれたころの庭との書き込みもあります。火災で焼失する前の龍安寺の様子が伺えます。
一方、造園家でわが大阪芸術大学の学長を務められた中根金作氏は、かつて自ら発掘調査を行った結果から、石庭部分の地面は江戸時代初期のものであると結論付けています。
(5)多くの先人達が研究、調査した結果は山のようにあり到底追跡し切れませんが、私なりに推理してみました。
龍安寺の石庭は江戸時代になって新寺院諸式が定められてから以降1797年の火災の前に築造された。そして火災によって方丈等が焼失した後、方丈は西源院から移築された。元々大きさの異なる方丈を移築したため、石庭の中央に対して方丈の中央を東西、南北方向ともに、ずらさざるを得なかったのではないのか。
三.作庭者の謎
龍安寺の方丈の建物と南庭(必ずしも石庭ではない)とは同時にも築造されたと思われます。前段ではその南庭が石庭として作庭された時期について記しました。今日私達が見る石庭の作庭者は作庭時期とは密接な関係がありますが、作庭時期同様作庭者についても諸説があって特定するに至っていません。しかし龍安寺の創建者細川勝元、開山者義天玄承禅師、再建者細川政元、中興開山者特芳禅傑、相阿弥等は主として江戸時代の文献資料を根拠にこれまで推定されていた人物で、前段に記した造営時期に照らして明らかに該当しないと思われます。それ以外に作庭者として次のような人物が推定されていますが、ここではその根拠、理由等は省略し、名前を列挙するに止めて置きます。
子建西堂 西芳寺住職
般若房鉄船 龍安寺塔頭多福院開基者
小太郎・清(彦)二郎 庭園家
金森宗和 茶人 (江戸時代)
小堀遠州 作事奉行 (江戸時代)
方丈庭園の国の史跡、特別名勝指定
史跡 1924年(大正13年)
特別名勝 1954年(昭和29年)
御室・衣笠特別保存地区に指定 1969年(昭和44年)
ユネスコの世界文化遺産に登録 1994年(平成 6年)
本シリーズの原稿執筆に際し、内容考証には 特定非営利活動法人 国際造園研究センター理事長の清水正之氏、(株)空間創研会長の吉田昌弘氏、挿絵の作制には大阪芸大環境計画学科の卒業生 上さち子氏に協力をお願いしているところです。
記して謝意を表する次第です。